どうも、あまのです。あと一か月ほどでクリスマスですね。
この記事をご覧になっている方の中にはクリスマスなんて関係ないという方もいらっしゃれば、ご子息・ご息女にプレゼントを買うために生活を切り詰めている方、いい年してプレゼントをもらう側の方、色々いらっしゃると思います。
本ブログの運営を行うあまのいもこ・こまちはこの時期はプレゼント選びと確保 (ネットショップって便利ですね!) のために毎年八面六臂の大活躍をしております。合間にネットサーフィン休憩をするわけですが、クリスマスにまつわる逸話を読んでいたらロマンチックなお話がたくさんあるみたいで、思わず長時間読んでしまいました。
せっかくですので、皆様にもクリスマスのいい話、共有させていただきます。貧乏暮らしの記事ばかりでは書く側も読む側も気が滅入りますからね。
The Gift of the Magi (邦題: 賢者の贈り物)
一つ目、1800年代後半~1900年代前半のアメリカの作家、O. Henryの“The Gift of the Magi”です。正確な引用ではないですが、こんな感じの話です。日本人になじみやすいよう、一部表現をアレンジしております。
むかしむかし、あるところに、ジムとデラという若い夫婦がいました。
ジムは貧しいサラリーマンで、その上、今年は特別景気が悪いものですから、いつもにもまして寒くてひもじいクリスマスを迎えなければなりませんでした。
デラは、なんとかして今年のクリスマスを楽しく過ごしたい、夫のジムにもプレゼントを買ってあげたい、と思いました。しかし、財布にはほとんどお金がありません。デラは、悲しくなりました。つう、と涙が頬を伝いました。
鏡台に落ちた涙をぬぐおうとしたとき、いいことを思いつきました。デラにはフサフサの長くて美しい髪の毛があったのです。すべての髪の毛と引き換えに、ジムが大切にしている懐中時計につけられる白金の鎖を手に入れることができました。
一方、ジムも愛する妻のための贈り物を考えていました。しかし、お金も髪もありません。そこで、おじいさんとお父さんから受け継いだ懐中時計を売ることにしました。そして、そのお金でデラの美しい髪に似合いそうなかんざしを買いました。
デラは長屋でジムの帰りを待っています。その手に白金の鎖を携えて。ジムは長屋への道のりを走ります。その手にかんざしを握りしめて。
ふすまを開けたジムはデラを見て立ち眩みを起こしてしまいました。愛する妻の美しい髪がなくなり、あまりにもまぶしかったからです。デラも驚きました。ジムの大事にしていた時計がなくなっていたからです。
そう、二人の贈り物は両方使うことができなくなってしまったのです。しかし、夫婦はお互いの「思いやり」を受け取りました。そこには確かに、自分の大切なものを犠牲にして愛するものを喜ばせようとした思いやりがありました。
二人は、お互いの贈り物を大事にしまい、長らく幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。
お遍路
いかがでしょうか?効率至上主義、成果主義的な現代人からすると無駄に見えてしまうかもしれません。物質的には得たものが無いということには反論はできませんし、「思いやり」や心の豊かさなど定量的に論じることができないものについて議論するのは難しいです。
ただ、こういう状況でお互いを「余計なことしやがって」と罵ったら夫婦関係は破綻すると思います。なので、無駄だと思うことは否定しませんがそれを安易に批判することは危険であるといえます。
あまの個人としては、お互いの愛の深さや自己犠牲の尊さを描いた良作だと思います。子供へのクリスマスプレゼントこれでいいかな?
Little Women (邦題: 若草物語)
二つ目、若草物語です。クリスマス関係ないって? Louisa May Alcottによる1800年代半ばの作品ですね。「賢者の贈り物」と違って長いので、引用というか重要部分をさらりと載せます。クリスマスとは関係ない話ですが、髪を売る話つながりで紹介いたします。
南北戦争時代のアメリカ。北軍の従軍牧師のマーチ氏は戦地で負傷し、ワシントンで入院加療を受けることになりました。
マーチ夫人は病院に駆け付けたいと思いますが、お金がかかります。マーチ家の四人娘の次女、ジョー (当時15歳) は髪を切ってお金に換え、費用を捻出しました。
Alcot
若草物語には続編もあり、個性的な四姉妹のエピソードがつづられます。上に示した概要に登場する次女のジョーは作者のAlcottの投影だそうで、実際、後編では執筆業についています。
1987年には、世界名作劇場 (フジテレビ) でアニメ化されたこともあり、中高年の方は映像でご覧になったこともあるかもしれません。最近ではメリル・ストリープやエマ・ワトソンら豪華キャストで映像化されております。原作を知っている方も知らない方も楽しめるのではないでしょうか。
羅城門 / 羅生門
三つ目、羅城門 / 羅生門です。髪の話したいだけだろうって?いいじゃないですか。「羅城門」は今昔物語集 (平安時代後期) の話、「羅生門」はみなさんご存じ芥川龍之介の作品 (1915年) ですね。後者は前者をベースにアレンジされた作品で、中学や高校の国語の授業で両者を比べた記憶がある方もいらっしゃるかもしれません。
両者の共通点は「男が門の上の死体安置場で女性の死体から髪を抜く老婆に遭遇し、略奪行為におよぶ」ことですが、芥川作品においては、いろいろアレンジを加えることで男の倫理観の揺らぎを描いています。変更点を以下に列挙します。
- 門の名前:羅城門 → 羅生門
- 男の職業:最初から盗人 → 下人から盗人にジョブチェンジ
- 男の年齢:不明 → 若者
- 街に来た理由:悪事を働くため → 明確な理由なし
- 死体の女性:老婆の主人 → 蛇肉を魚肉と偽って売りさばいていた悪人
- 略奪の相手:老婆 + 死体 → 老婆
門の名前
羅城門は実際に存在したようで、京都市南区の東寺の近くにあとちがあります。「城」を「生」に変える理由については議論されつくされておりますが、「生活のためには仕方ない」と罪を犯す男、老婆、女性の「生」を描いた作品であることを明示するためと考えられております。
「羅」の字には「網」という意味があります。「網羅」という熟語がありますね。このことから、上記三者の「生」が絡み合うという意味合いを持たせていると考えられます。
男の職業
男の初期ジョブが盗人でない理由については、生活苦と倫理観を天秤にかけてゆらゆらしていたところを老婆の話でさらに揺れ動き、盗人になってしまったという葛藤を描きたかったからだと考えられます。最後足早に現場から逃走した描写もジョブチェンジによる素早さの上昇効果を表していると思われます。
男の年齢
男がニキビのある若者になっていることについては、上述の悪人になるべきかならないべきか迷っている描写との整合性をとったものと考えられます。今どきの娯楽作品でありがちな、「主人公が若くないと売れない」という理由ではないはずです。リメイクされたら家出少女とかになるんでしょうか?
街に来た理由
街に来た理由を不明確にすることで、どう生きるか迷っている印象を強くしています。門の上に上がったのも身を隠すのではなく、風雨をしのぐためという受け身な理由になっています。
死体の女性
羅生門では死体の女性もまた悪人の設定です。こちらも「生きるために仕方なく」蛇肉を魚肉と偽り売っておりました。老婆も、相手が生前そういう人間だったので、「自分だって生きるために仕方なく」と言い訳をしながら死体損壊に手を染めていたという描写になりました。この描写があるからこそ、男も老婆から略奪することへのハードルが下がったといえます。
「仕方なく」という言い訳と「悪人を懲らしめる」という義憤の絶妙なマリアージュと言えましょう。
略奪の相手
羅城門の方では、老婆の着物と死体の着物、さらに髪までも盗みますが、羅生門では老婆の着物のみを奪います。これは、「悪人を懲らしめるという大義名分」が略奪の瞬間の行動原理になっていたためと考えられます。ここで奪ったものが違うと作品の印象もだいぶ変わったことでしょう。
なお、髪を奪わなかった理由について、羅城門の男は頭部の尊厳が無く、羅生門の方は頭部が尊厳にあふれていたためという解釈もあります。本当のところはどうなのでしょうか?皆様もぜひ二つの作品を読み比べ、考えてみてください。
ある薄毛男性のクリスマス
サンタさんに髪の毛お願いしたら枕元にたくさん落ちてた
まとめ
クリスマスにかかわるいい話を紹介させていただきました。いかがでしょうか?心温まりましたか?最高ですか?特に何ともないですか?
それではまた!
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